「銀のボンボニエール」 秩父宮勢津子

 

銀のボンボニエール

銀のボンボニエール

 

松平節子が容保の孫と知ってからすごく読みたかった本だ。

 

彼女の子供の頃から皇室に入り秩父宮がなくなってからの晩年まで

描かれている。子供の頃や外交官の父親についていったアメリカ時代

その後の皇室入りのあたりは明るく楽しめるのだが

その後宮様のご病気、戦争と続くとだんだんと重い雰囲気になって

読んでいくのもつらくなっていく。

 

子供時代に教育係として一緒にいた生粋の会津人たかはパンチのある

女性で白洲正子の本にも出てきていたが、まっすぐで時代に迎合せず

信じた道を行くタイプでいい。

アメリカにも一緒に行ったが英語は話さず着物で暮らす。

当時外交官には家族の人が多かったらしいが、それは政府がお金がなく

体裁を作ろうために持ち出しも多かったこともあるようだ。

さらに会津は当時はまだ日本では出世がしにくく、外国にいった方が

いいということもあったのかも。

 

学習院の娘時代には学校で「あの方宮家におあがりになるとよろしいのに」

など噂をしあったらしいがまさか自分がと思った話が載っていて

やはり宮家は遠くて近い存在だったのだろう。

松平家でも自分の印があったそうで、それが菊だったという節子。

この印という習慣は旧華族にはみんなあったのだろうか?

 

宮家にあがってからほかの宮家や天皇陛下御一家との交流が描かれているが

もっと淡泊かと思っていた彼らの関係が意外に思いやりのある様子に

正直驚いた。英王室との交流も描かれていて彼らの親しげだ。

秩父宮妃となり、公務をしながら看病をしてほかの宮家と

お付き合いをしてというのも大変だったろうと思われるが

思いやりがあり素直で謙虚な性格が読んでいるとうかがわれる。

 だからこそ周りにも大切にされたのだろう。

ご成婚前にも会津に挨拶周りをしたとき、行く先々で旧会津40万の

民衆の大歓声に迎えられたという。

容保が子供たちと会津を後に東京へ移転するときに

人力車を兼ねた一行を旧藩士の人々がどこまでも

ついてきてきりがないからとうとう容保が

降りてどこまでも送ってくれてもきりがない、どうかもう帰ってくれ、

ここでお別れにしようと言った逸話もじんと来た。