「余白の愛」小川洋子

余白の愛 (中公文庫)
夫の浮気を機に耳を病んだ私とふとしたきっかけで  
彼女の速記をすることになった速記者のY。
耳鼻科の前にある元公爵邸を改築した古いホテル。
ふたりが出会ったそのホテルにまつわるお話をYはいろいろとしてくれる。
そこは昼と夜で雰囲気が変わるように設計されていたという。

昔、この窓を開けると、向こうはバルコニーになっていました。晴れた昼間は、石造りの手すりの彫刻に陽射しが弾けて、バルコニーは王冠のように光り、月の下では、深い沼になって、闇に浮かんでいたそうです。

だが、公爵の次男が13才のときに過ってバルコニーから落ちて、
廃人同様になってしまってから、すぐに取り壊され今はない。
次男の部屋はジャスミンで埋め尽くされ、彼がなくなった今すべて処分されているのに、奥深くに染み込んだ香りは今も夜八時になると漂う。

日課になった彼女の部屋での速記で、彼女は13才のときの恋の話(この彼が
最後につながる)や夫との昔話やいろいろなことを話しながら心の再生を
していく。いつしか速記用の紙が減っていき最後の速記の時がやってくる。


Yの家では昔、盲導犬になるための子犬をボランティアで飼っていた。
すぐに盲導犬になるための訓練が始まるようになるために
別れなければならないのが辛くて、今度は引退した盲導犬を飼うボランティアに変えたというエピソードがある。そんな話ひとつにもYはいいところの
坊ちゃんだったに違いないと感じさせ、最後への伏線になっている。
私の耳鳴りがバイオリンの音だったり、小川洋子の話の細部は美しい。
相手との距離を「思わず頬を掌で包みたくなるような近さ」と表現するのも
体だけでなく気持ちも近いことを同時に表現していて素敵だ。